医学の歴史を追うという仕事は,文献を頼りに現代医学が辿ってきた川筋を遡行して行くことである。古い時代になればなるほど,その流れは干上がり藪に埋もれ,痕跡をとどめなくなっている。
この仕事の中で特に気を使うのは,この医療を開発したのはだれなのか,最初に臨床応用を行ったのはだれなのかなど,その源泉に辿り着き,それが本当に最初なのかを確認する作業だろう。
筆者も定年後,少し自由な時間が持てるようになったので,これまで手をつけることができなかった透析や移植の「温故知新」をやってみようと思い立ち,まずは透析の源流を探し求め,得られた知識の断片を透析ケア誌に連載してきた。その中で判明した腹膜透析に関するちょっとしたエピソードがあるので本冊子に好適な話題と思い,ご紹介することにした。
ガンターが腹膜透析について最初の論文を発表したのは1923年。私の恩師,稲生綱政先生のお生まれになった年だ。私の父が内科で開業した頃でもある。私が子供の頃,父は小児の大量輸液には腹腔を使うのが最も便利であるといって実践していた。これも腹膜灌流から得られた知識の応用だったのかもしれない。
腹膜灌流という言葉が日本の医学雑誌に最初に現れたのは1953年であるが,これは名称のみでその説明はされていない。最初に内容に触れた論文は「人工腎臓及び腹膜灌流法」と題したもので,当時,東大第二外科の講師であった渋沢喜守雄がイヌを用いて行った実験成績の報告である。
その後,外科医の興味の中心は人工腎臓をつくって血液透析を行うという方向に進んだため,それ以降の報告は途絶えており,代わって泌尿器科医がこの分野で活躍するようになった。1955年頃の「皮膚と泌尿」や「日本泌尿器科学会誌」を繙いてみると,当時,北村精一教授が率いていた長崎大学における腹膜灌流の仕事が出てきた。読んでみると臨床に用い救命された例がある。そこで,当時の状況を知っている人を探すべく長崎大学出身で旧知の進藤和彦先生に,もしかしてと電話をかけたところ,幸いなことに1957年に発表されている「単腎部分切除と腹膜灌流」という論文の著者であった城代浹一郎先生がご存命であることがわかった。早速問い合わせたところ,「私が腹膜灌流で救命された本邦第一例ではないかと考えた症例」についてくわしいお手紙をいただいた。
この患者さんは伊○一○氏で,県下の著名な外科医であり,生来酒豪だったが 1 年半前にこれを断っていた。1956年 3 月,貝を食べて中毒となり,嘔吐,下痢が続き,無尿も
8 日間に及んだ。彼はこの論文を書かれた城代医師の親戚であったため,彼のところに連絡が入った。その時点まで地元の医師が治療に当たっていたが,患者は眼球結膜まで浮腫が強く,意識はまったくない状況であった。当時は救急車もないため,デコボコの田舎道を
1 時間半もかけて必死の思いで長崎大学に移送し,家族にも十分説明したうえで,まず右腎の被膜剥離を行い,その手術創の下端に注入用のビニールカテーテルを,また左側下腹部にもう
1 本の先端に多数の穴をあけた排液用のビニールカテーテルを入れ,12,000mLの灌流液を12時間にわたって流した。
これにより尿素窒素値は170mg/dLから80mg/dLまで低下し,状態もやや落ち着いたので導尿したが,血液状の液が 2 mL得られたのみであった。しかし,その
6 時間後に再度導尿したところ480mLの尿が出て,以後,毎日2,000〜3,000mLの多尿となり,腎不全から脱出することができた。
城代医師は,その時の情景が今でも走馬灯の如く脳裏に浮かぶと以下のように語られた。すなわち戦後あらゆる面で最悪の状態,困窮の中で実験を行った腹膜透析を,「生命力のある透析膜」を使い,操作が簡単で危険が少ない血液浄化の手段として取りあげたこと。当時,原爆の被災で壊滅状態にあった研究室を立ちあげ,苦心を重ねて作業したこと。また,このように原爆の傷跡の残った瓦礫に裸電球が一つ,薄暗い地下の動物実験室であったが,兎と犬を使っての実験を続けられたのは故北村教授や荒木助教授のあたたかいご指導と計らいによるものであり,急性腎不全の治療を天より下された使命と思い,当時寝食を忘れてその仕事に従事したことなどお話しいただいた。
なお,このような経過で腹膜灌流による最初の救命者となった伊○医師はその後,自己管理に徹し,開業医として地域の人々に親しまれ,85歳の天寿を全うされたとのことである。
一方,城代医師は現在,息子さんと一緒に長崎県で血液透析の施設を運営されていることを付記して,このご協力に対し感謝の意を表する次第である。