またあの日がやってきた。私の還暦は疾っくの昔に過ぎているのだが。あの時からも60年が経ってしまった。当時14歳の私は福島県下川崎村の高国寺を宿舎に男手不足の村で勤労奉仕をしていた。3月10日の大空襲で下町が焼野原となった東京を後に,家族とはもう二度と会えないのではという思いを心の奥にしまい,級友たちと一緒にはるばるこの地にやって来たのだった。
 ここは「安達ヶ原の鬼婆」で知られていた辺境の地,最も近い駅は東北本線の安達,かつては人を喰う鬼婆が住んでいると恐れられていたところだが,私たちが訪れた頃は山間に田畑が広がる農村であった。当時はここでも食料難が深刻で,いろいろなトラブルが発生していた。
 8月15日には本堂に集められ,脇の小部屋にあったラジオから漏れてくる玉音放送を聴き,戦争が終わったことを知った。その日の午後,私は引率者であった担任の中村草田男先生から,福島まで行って青リンゴを買って来るよう言い付けられ,友人と二人で籠を背負って徒歩で10キロほど離れた福島市に出かけた。道端では人たちが不安げにひそひそ話しをしていた光景を今でも鮮明に思い出す。
 戦争が終わったのなら早く東京に帰りたいと,皆願ったが,先生たちは「東京の様子がわからないので迂闊には帰れない。もう少し待て」と3週間ほど待たされたが,やっと皆揃って帰京することができた。
 あれから60年。食料難にあえぎ,着物を売って,その日をしのぐタケノコ生活,夜は停電,ローソクを頼りに本を読んだり,宿題をやったりしていた時代を過ごし,1950年頃より少しずつ生活が楽になり,やがて「お前は器用だから外科医になれ」と子供の頃から内科医であった父に言われ,迷うことなくその道を選んだ学生時代。それから外科医として働いた今日まで。この60年,科学は進歩を続け,これまで考えられなかった様々な技術が開発され,活動の分野は広がり,全世界的な出来事も瞬時に入ってくる情報過剰の時代になった。
 一方では携帯が個人のアイデンティティとして認識され,これを介して一見平和に見える国内で毎日のように「今まで見たことも聞いたこともないような犯罪」が,しかもしばしば子供の手によってやられているという現実がある。真に暗澹たる気分にならざるをえない。このように文明は必ず廃頽するという現実を毎日のように見せられ,今後どうなることか,やり切れない思いが重くのしかかってくる。
 これを立て直すためにはまず子供の家庭教育からやり直す必要があろう。子供は愛情をたっぷり注いで育てなければならない存在だが,両親が共稼ぎで忙しい毎日を送っている状況では,それもままならない。その一方では,将来を見越してか独身で過ごす人達が増えてきており,子供の代替役としてペットとの共生が進んでいる。
 心ある人はこれを何とかしなければ,といろいろ意見を出しているが当事者たちが動かなければどうしようもあるまい。
 考えてみるとこれまでの生活には何らかの制約が常に付きまとっていた。しかし利便性の追求の結果が次第にそれらを取り除いてしまった。その代表はコンビニと自販機だろう。これらの出現により,人間は“予め用意をしておく”という心くばりを忘れ,刹那的な行動を取ることが多くなり,それが他の日常的な事柄にも反映するようになってしまったという印象がある。
 もう一度立ち止まって自分を見直すゆとりをもたなければと思う。



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